「仕事がなくなるのなら、私たちで新しい仕事をつくろう!」

 

○今日よりも明日
希望を持てる地域社会をつくる拠点 インタビュー


ワーカーズコープ・センター事業団 相談役

岡元かつ子さん

聞き手:労協新聞編集長 松澤常夫

かつて「地域福祉事業所だんらんグループ」のリーダーとして奮闘、現在はワーカーズコープ相談役を務めている岡元かつ子さん。いったいどんなやり手なのかと身構えて訪ねてきた人の誰もが「普通のおばさんだった」と評する。
「最初、生協委託の仕事だけのときは60人が最大でした。そこは20人に減ったけど、豆腐事業を立ち上げ、お弁当、訪問介護、デイサービスと広がって、働く人は130人を越えています。すごいでしょ」

自画自賛なのだが、ちっとも嫌みがない。

みんなのがんばりに素直に感動する。だから、「すごいでしょ、すごいでしょ」と、自分たちのことを誉める言葉も素直に出る。そして、「なぜここまで」と秘訣を尋ねられたときは、「協同だからできたのよ」と繰り返す。

物流現場委託から自前の仕事おこし事業へ展開し、これまでにたくさんの人たちと出合い・地域のコミュニティの場、そして生きがいの場としての拠点になったといえる。
一人では何も出来ないが協同労働だからこそ、こんなに力が発揮できると実感している。

 

「一人ひとりが主体者」 仲間5人で労協センター事業団へ

1987年、家(埼玉県比企郡嵐山町)の近くに生協の共同購入物流センターができた。共同購入の各班への商品の仕分けと配送を行う施設だが、ここの業務の一部を労協センター事業団が受け持つことになった。

商品を棚からとって、コンベアを流れてくる箱に詰める作業は生協パートの人たち。その棚に商品を補充していくのが労協組合員の仕事だった。(棚を境に、補充する側は、作業空間全体が冷蔵庫のようになっている)

応募する側は、そんな区別など知る由もない。岡元さんたちも、生協のパートだと思って、地域の生協組合員仲間5人で応募した。岡元さんは、面接の際にこんな注文もつけた。

「せっかく5人で来たので、働けるのなら5人一緒にしてください。落とすのならみんな落としてください」

30人の枠に200人ほどの応募があったが、岡元さんたちは採用された。

労協では短時間就労でも、パートという“部分人間”のような働き方ではなく、組合員となり、主体者として働く、というような話を聞いて、「ここなら、自分たちの意見もとりいれられるのでは」という期待を抱いた。よい仕事をし、よい地域をつくる“協同組合間提携”の事業、という説明に共感する部分もあった。

しかし、心は生協で、生協あっての労協だった。

まず問題になったのは、同じ食堂で昼食をとるのに、生協パートの人たちは生協の補助があり200円なのに、事業団は500円。「え~っ!おかしいじゃない!私たちにも300円の補助金をつけてよ。どうしてつけられないの」労協センター事業団は“文句をいう対象”としての存在だった。

 

「理想か現実か」ではなく「自分たちでやるかどうか」が問われる

こうした状況を変えていったのは、一つには、労協らしい現場運営と会議の積み重ねがある。

2週間に1回、事業所委員を中心に職場会議が開かれ、全団員集会も月1回は開かれた。仕事の改善についてもみんなが考えられるようにと、“冷蔵庫”の中での作業、お米など重たいものを積む作業など15種類の仕事を2カ月間に全員が体験した。

会議では、労協とは、労協の働き方とは、ということが繰り返し話された。“パートで働くのに、なんで会議なんて必要なのか”という人もいたが、ここで働く意義を絶えず問い返し、一人ひとりが働き方を文章にしたこともあった。

「働く人たちが主人公になる」という言葉から、生協職員としての働き方との違いが少しずつ理解されていった。

決定的だったのは、センター事業団本部スタッフと何でも言い合える関係ができたことだ。40代前後で、同世代ということもあったが、事業所委員のメンバーと永戸祐三専務(当時)とは、会議の後、いつも呑みながらの“延長戦”に入った。先鋒は“横ちゃん”こと、横倉しず代さん(その後、介護分野で先進を開く)。

『15人でやる仕事を9人でやるような極限的な状況。あなたはそういう現実を知らないでしょ』
「現実か理想か、ではないの。自分たちでやろう!という軌道に立つかどうかだ」

『私なんか、余った時間を使って家庭を守るためにパートに出ているだけだもの』
「どうしてもっと本物になろうとしないの。『本当にこれをやりたい』といえば、夫も子どもも『がんばれ』といってくれるのでは」

『ただでさえ人が足りないのに、今度、小学校に入学する子をかかえた人には、送り迎えの時間を保障しなければならない。どうしてくれるの』
「そういういい方はあまりにもさびしすぎる。みんなでささやかでも入学のお祝いをしよう、という話がまずあって、送り迎えのときの仕事の段取りはどうしようか、という話になるのが当たり前でしょ」

このとき岡元さんは、自分たちの現実を訴える横倉さんの話に「その通り」と思いながらも、永戸さんの話にも「それはそうだな」と、引き込まれるものを感じていたという。

「冷凍・冷蔵庫の仕事で、ふだんでも人が足りない中で休みがでる。残った人にふりかかる。だから文句を言った。だけど、永戸さんにいわれて、ああ、そうだなというのもあった」

岡元さんは、新しく入った人が子育てのことで休まなければならないとき、前からいる人には「子どもが小さいうちはしょうがないよ。そこはさ、みんなでなんとかがんばろうよ」と説得し、新人には「大丈夫。みんな、こうやってやりきってきたんだから心配しないで」と励ました。小さな子をかかえた人が休む時にあった、「まったくう!」という非難の言葉はなくなっていった。

 

いいものをつくれば、買ってくれる人がいる

1994年に委託の打切りの話が提示される。組合員の中から「仕事おこし」の声が出始める。

「仕事がなくなるのなら、何か自分たちで新しい仕事をしたい」

「じゃあ、何をしようか」

このときたまたま、長野県北御牧村の主婦たちが1万円ずつ出資して村おこし事業として始めた豆腐づくりが順調だという情報を得て、さっそく希望者8人で訪問した。

国産大豆で、本当においしい豆腐。隣町からも買いに来る。1日に600丁を売って20人ほどが給料を得ている。それは、本物、まともなものを子どもたちに食べさせたいと、生協運動をやってきた人からすれば当然の生活感なのだろう。

「人間として、おいしいものは食べたいと思うじゃない。おいしいものだったらきっと買ってくれる人たちがいる。自分も食べたいから」
岡元さんはこんなことを、さらりと口にする。

 

「これならできる!」200万を自分たちで出資

「新しい仕事をおこす話し合いの場をもつので、興味のある方は、4時に仕事が終わってから会議室に集まってください」

呼びかけると、この先どうなるのかの不安もあったので、ほとんどの組合員が集まってきた。

熱のこもった提起に、出る意見も前向きだった。「ニーズはあるのか」「大豆はどうするのか」「お店はどこにつくるのか」。質問も次々に出た。

何回か会議を重ね、当初の経費見込み800万円のうち200万円は自分たちで出資する計画にした。平均すると、1人3~4万円になる。

「赤ちゃんからお年寄りまで食べられる、昔ながらのお豆腐」というコンセプトも決まり、議論はどんどん盛り上がっていった。

 

リーダーが踏ん切らなきゃ

ところがある日、会議が始まると、みんな黙っている。
「どうしたの?」
岡元さんが声をかけるが、シーン。
「何があったの?」
重ねての問いかけに、「じつはね」と、一人が打ち明けた。
「みんなでよく考えたんだけど、これだけのお金をかけても、どれだけニーズがあるか。もし赤字になったら誰が責任を持つのか。もう一回、白紙に戻して考え直した方がいい、ということになったのよ」

「えっ! 何? なに言ってるのよ。ここまで話し合ってきたのに、何なのよ!やるしかないよ」しかし、みんなはまた黙ってしまった。岡元さんにとっては、まさに寝耳に水だった。
“もうだめかもしれない”と岡元さんも心の片隅で思った。しかし、揺るがなかった。 “やるしかない、みんなでがんばろうと、ここまで話し合ったのに、ここで引いたら…引いちゃならない”

「赤字になったら、私が責任を持つ」そう言い切った。
リーダーが踏ん切らなきゃ。

「責任持つったってさ、そんなお金ないから、持てやしないけど、そうでも言わなきゃしょうがないもの。誰だって、大変な部分には進みたくないという気持ちがある。やっぱりさ、先に立つ者がしおれてしまえばお終いになっちゃう。リーダーが前を向いて決断しなけりゃ進まない」そんな思いだった。

重苦しい空気の中、ようやく一人が口を開いた。
「もしこのまま仕事が切られて、みんながばらばらになって、はい、さようなら、となったら、もう一回仕事をおこしたい、という思いになったとしても、もう集まりっこないよね。せっかくここまで話し合いをしてきたんだから、やっぱり、もう一回、やる方向で話し合おうよ」
北御牧村に行った仲間で、事業所委員の大越さんだった。

そして、1995年6月。
国産大豆と天然にがり100%の豆腐をみんなで学び、「とうふ工房」がオープンした。

とうふ工房の豆腐を買いに、地域の方々が通ってくれるようになる。
自然と会話が弾み、いろんな話も聞くようになった。
「ずっとここの豆腐が食べたいけど・・・。体が動かなくなると買いに来れなくなるかも」
そんな話を聞くようになり、豆腐の製造で出るおからを使ったお惣菜を考え始めた。
1997年には、安心、安全、手づくりの健康弁当の「愛彩」をオープンする。

 

地域の高齢者の生活状況を知って ―ヘルパー事業への挑戦

配食サービスを始めたことで、岡元さんたちは初めて地域の現実に深く触れることになった。

自分から弁当を注文してくる高齢者はまずいない。娘、息子などからの依頼なのだ。大きな農家に1人暮らしか老夫婦の2人暮らし。「どういうものを食べてるかわからない。1食でもきちっとしたものを届けてくれないか」と、子どもからの注文なのだ。

配達すると、「よく来てくれた。まあまあまあ、茶をのんでって。上がって上がって」と、いろんな話をもちかけてくる。「体の具合が悪いので、洗濯をしてもらえないか」というような話もよく聞いた。部屋の中が散らかり放題、という家もある。

とうふ工房を立ち上げる前、漠然と語られていたことが、もはや夢ではなく、必然となっていた。

こうして、ヘルパー事業への挑戦が始まった。

 

殺到したヘルパー講座受講生

98年1月に最初のヘルパー講座を開いた。

広報での紹介と講師は確保できたものの、担当者は「2万5千円もの受講料を出して受ける人がいるんですかねえ」と首を傾げた。それは、実は、岡元さん自身の不安でもあった。

ところが、受付開始日から申込みが殺到した。電話は一本しかないので、いつも話し中となる。

市から「どうなっているのか」と問い合わせがきた。広報にのった関係で、市にも苦情がいったのだ。「申し込みが多くて」と状況を伝えると、市もびっくり。30人の定員に対し、申込者は200人近くに達した。

この年、3級を2回、2級を1回開き、99年に入って2回目の2級講座を開いたときは、最初から、「みんなで事業所を立ち上げよう」と訴えた。

「協同組合は人に命令されたりするのではなくて、一人じとりが意見を出し合ってつくりあげていくところ。働くことの中身、仕組みから自分たちで考え、話し合うから、責任をもつし、いいものになっていく。それが一番理想的な働き方。みんなの力を出し合えばできる」と基本精神を訴え、「仕事を他に持っていてもいいから、ぜひ登録して」と誰もが参加できるように呼びかけていった。

これまでの経験があるだけに、実感を持って伝え、呼びかけることができた。

 

私たちのとっての協同とは

「協同とは何か」

この質問に、岡元さんは一瞬考えたが、「むずかしいことじゃなくて、一人じゃなく、みんなでやることよね。いろんな人たちが関わることで、いろんな発想が出てくると、これだったらいけるんじゃないか、というものがある。その発想をもとにみんなでやる」と答えてくれた。

「地域の必要性をもとに事業計画を立て、いろんな人たちに訴えていけば、自分たちで拠点をつくれる。雇用を待っているだけではなくて、自ら地域で拠点を作って頑張ることができるんだというのが、今の実感です。こういう地域福祉事業所を一つといわずに、またもう一つと頑張っていきたいなと思っております。中学校区に1カ所の地域福祉事業所が目標です。清掃の仕事、障がい者支援、子育て支援もやりたい」
(※2018年6月現在、深谷地域で障がい者支援・子育て支援事業をおこなっています)

岡元さんはこんなふうに決意を述べる。
何か問題があったら原点・なぜこれをやろうとしたか、ということに戻りながら。

2017年 深谷とうふ工房は、店舗を移転し再オープン。仲間も増え、事業も介護・就労支援・子育て支援・食と農業へと大きく拡大中です。

詳しくは

深谷とうふ工房のホームページはこちら