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沖縄出身 渡久地芳子さんに戦争体験を聞く(下)沖縄編 血が染み込んだ南部、全体がお墓
本紙 本田真智子
パラオで終戦を迎え、戦後沖縄に引き揚げてきた渡久地(とぐち)芳子さん(86歳)に、戦後の暮らしと「鉄の暴風」の爪痕が残る沖縄南部などを父親と見にいった話などを聞きました。沖縄の人たちが南部の遺骨が入った土砂を辺野古の埋め立てに使わせないと憤る、その訳がひしひしと伝わります。渡久地さんは日本社会連帯機構の飯沼潤子さんの紹介です。(本紙 本田真智子)
大宜味村で親戚50人と暮らす 沖縄に帰れたのは、昭和21年の2、3月ではなかったか。寒かったから、厚い服を着ていた覚えがある。 久場崎の沖に船を止めて、DDTを撒かれて、トラックに乗せられた。焼け野原の中をトラックで父と母の故郷に向かった。 大宜味村(おおぎみそん)に着いたら、親戚が迎えてくれて、死んだと思ったおじいちゃんおばあちゃんも元気だった。残っていた父の本家に、生き延びた親戚40〜50人が一緒に暮らした。食べ物もないので、ソテツ、フーチバー(よもぎ)、ぜんまい、ヒグ(へご)などを食べた。芋や米を食べられるようになるのは、ずっと後のこと。 近所では、お父さんのいない子...
大宜味村で親戚50人と暮らす 沖縄に帰れたのは、昭和21年の2、3月ではなかったか。寒かったから、厚い服を着ていた覚えがある。 久場崎の沖に船を止めて、DDTを撒かれて、トラックに乗せられた。焼け野原の中をトラックで父と母の故郷に向かった。 大宜味村(おおぎみそん)に着いたら、親戚が迎えてくれて、死んだと思ったおじいちゃんおばあちゃんも元気だった。残っていた父の本家に、生き延びた親戚40〜50人が一緒に暮らした。食べ物もないので、ソテツ、フーチバー(よもぎ)、ぜんまい、ヒグ(へご)などを食べた。芋や米を食べられるようになるのは、ずっと後のこと。 近所では、お父さんのいない子...
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